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先週からとても忙しくて、
食事をまともに取れませんでした。

食べてはいたけれど、
何を食べたかが思い出せない
というのが本当のところですが、
こうなってしまうと
せっかく食べたものも
身にも皮にもならないので
本当につらいものです。

僕とカミさんは
外食が好きではありません。
さらに言うと、
年々、外の味が口に
合わなくなっています。
歳を取ってきたこともありますが、
何だか「食べた気にならない」のです。

普段から買い置きして冷凍してある
肉や野菜でスープや惣菜を作り、
1週間の間、それらを
無くなるまで食べ続けます。
途中で味に飽きたら
トマト缶を加えてみたり、
煮直したりして食べます。

別に倹約家というのでもありません。
そのほうが「旨い」し、
「食べた気になる」からです。

もしかすると、
食事を作りながら、そのたびに、
自分自身を取り戻しているのかもしれません。

自分の手で食事を作る。
そうやって取り戻した、自分を
さらに噛みしめる。

食べたものが喉元を過ぎ、
腹の中に収まるときに
自己承認にも似た感情に
気づけるから、
僕は作って、食べることが
好きなのかもしれないのです。

今日のお昼はおにぎり。

















僕はどちらかというと

遅読タイプなのですが、

一度に何冊かの本を同時進行で

読むことがほとんどです。

理由は単純で、飽きっぽく、

かつ、熱しやすく、冷めやすい

ということによります。

そんな自分の性格をわかっているからこそですが、

ジャンルの違うものが

いつも手元にあります。

今、読んでいる本をあげてみます。


来訪者(新訳版) 

   ロアルド・ダール 著 田口俊樹 訳

経営とデザインの幸せな関係 

   中川淳 著

Cornelius×Idea:Mellow Waves -コーネリアスの音楽とデザイン‐ 

   アイデア編集部 編

貧乏サヴァラン 

   森茉莉 著

どんな内容かは

ネット見ろ!ってことで。


さて、当然のことながら、

さらっと読み流すものもありますし、

気に入って何度も読み返すものも

あります。

貧乏サヴァランなどは

その部類に入ります。

また、書店で気持ちがノッてしまい、

調子に乗ってたくさん買ったうえに

その本を開くことなく

1年以上放置ということも
ままありますし、

読み始めて最初の数ページで、

飽きてしまう本もあります。


ですが、

それは、ちゃんと読み進められない

自分の忍耐力や意思が希薄なんだ。。。


などとは少しも思いません。


単純に、自分にとって「面白くない」から読まないのだ。

もしくは自分が読み進められない内容を

執筆している著者や編集者が悪いのだ。

と考えるようにしています。

とはいえ、そんな考え方ができるようになったのは

35歳も過ぎてからのことです。


「〇〇のために〇〇を読まなければいけない」

「最後まで読了しなければ意味がない」

「登場人物の心情や、作者の意図を理解しなくてはいけない」

「ななめ読みをしてはいけない」


思い起こせば、小学校入学以来の

悪しき習慣にわりと最近まで

縛られ続けていたわけです。


あと、本をよく読む子は賢いとかね。

ああいうのがかえって子供心には

重荷だったりするわけで。


たまたま、自分が本を読むことが好き

(というより本そのものが好き)
だったからまだよかったものの、

苦手な人は、ある一定の年齢になったら

(受験や通学などの目的がなくなったら)

やっぱり、やめてしまうんだろうなと思います。


僕の場合は本ばかり読んでいたので、

小学校の通信簿に

「読書好きなのはいいが、学力が下がるので少し控えるように。」

と書かれたりしました。


結局どっちやねんて!?


今、日本の書店数が激減しています。

電子書籍はずいぶん普及してはいますが、

出版社も事業の縮小、撤退など明るい話題はほとんどありません。

15年くらい前に僕が広告を担当していた雑誌も

休刊につぐ休刊で、

今はまったくといっていいほど

なくなってしまいました。


出版物の流通システムが

硬直化していることや

前述のとおり、ネットで検索すれば

その書籍のあらすじや

付帯的な関連情報がだいたいつかめてしまったりするので、

わざわざ本を買う必要がなくなってしまった、というのも
あるのでしょうが、個人的には、

幼いころから


「好きな本」を「好きなように読んでいい」

「読みたくない本」を「読まなくてもいい」


ということが認められていないことも

案外、要因としてあるのかなと、

ふと思ったりします。


その意味では近年、絵本を購入する大人が

増えているというのは
「読みたい本を読むための」時間を
取り戻すための

いい傾向なのかもしれません。


僕が子供の頃の絵本の立ち位置は

「子供が読むもの」

「母親が子供に読み聞かせるもの」

だったわけですから。

少なくとも大人の読むものでは

ありませんでした。


ところで最近、

過去に電子化された出版物が

記録メディア自体の劣化や

読み込めるデバイスが稼働しなくなり、

再現ができない事象や、

過去のブログやオンラインゲーム、

またネット上でしか展開されていない

著作物の権利保護と

経年保存をどのようにしていくか

についての議論が

盛んに行われています。


特にクラウド上で保存、公開されている著作物は

そのクラウドがサービス提供をやめた場合、
収納されている著作物がまるごと消滅してしまう
という危険性をはらんでいるそうです。


すでにアナログ的なもの

と思われていた

紙の書籍類や出版物のほうが、

結果、長期記録・保存や著作権者の

履歴を遡る上で実は最強だったという、

何とも皮肉なお話です。


ちなみに僕は電子書籍はほとんど読みません。(マンガ以外は)

一番の理由は

装丁を楽しむことができないから。

プラス、かえって目が疲れると

いうことですかね。

おかげでリュックがいつも重くて、

肩こりがひどいというわけです。


重さの軽い本を選んでるだけなのでは。。?


みなさんお元気ですか?


やや間が空いてしまいましたが

8月9日に伺った「おとぎ展」について

書こうと思います。

鈴木さんをはじめ、各美大の有志が

集まったグループ展。。

もう、みなさんご存知ですよね。

今回は藝大の卒業制作の実物も初めて

見させていただきました。


ベースとなる正方形のグリッドと

同サイズの正三角形を組み合わせて

からすを描かれているようでした。

単純化された描線と、大きな目が特徴で、

1羽1羽はかわいらしいフォルムなのですが

このように複数羽集まっていると

背景の太陽の色も相まって

不気味さを感じます。


こちらは絵本なのですが

ストーリーの終盤ではこのカラスたちが

どんどん増えていって、

ついには空を覆うほどになります。

相似形(のように私には見えた)の

黒い鳥たちが

空ばかりか、すべての存在を

黒く塗りつぶしていく様は

あのヒッチコックの名作「鳥」と同様に

抗うことのできないほどの

恐怖や現実の前で、なすすべのない

人間の無力さを表現しているようにも

思えました。

(絵本の原画も展示。)


もうひとつ紹介したいのはこちら。

「あめふり」という作品です。

絵本原画の公募展として、

絵本作家の登竜門ともなっている

ボローニャ国際絵本原画展の巡回展に

合わせて、板橋区立美術館で

開催されたセミナーに鈴木さんが

参加された際に創られたものだそうです。


中でも印象に残ったのは

雨の降る日、お母さんが

子供を保育園に迎えに来た

その一瞬をとらえたこのカット。

こちらは原画ですが

この一瞬を様々なアングルから

とらえられていました。

この絵に一度見たことがあるような

既視感を覚えたのですが

園児だったころの自分の記憶と

同じような場面を経験した記憶が

親と子それぞれの視点で

よみがえったからなのかもしれません。


写真ではとてもコンパクトな装丁に

見えますが、

大きく1枚に広げられるしかけがあったりと

とても面白い作品でした。


「おとぎ展」に伺わせていただくのは

今回で2回目でしたが、

メンバーのおひとりが身体を壊されて、

作品を出されていなかったこともあり、

前回に比べるとやや寂しい印象の

展示会ではありました。

ぜひ、次回は期待したいです。


ところで、「おとぎ」という言葉は

おとぎ話に代表されるような

昔話や伝説、空想話などのファンタジーを

想起させますが、

実は夜の慰めや妾といった意味も

含んでいたりするそうです。


展示物は各々1点づつでもいいので

例えば、おとぎに対しての解釈を

毎回ひとつのテーマにしてみて
さらに切り込んで表現されたものを

見てみたいなぁとも思いました。


ぜひ、機会があれば、みなさんも

ご覧になってください。


カメラは正直だとよく言われます。

意思を持たないその機械は

ファインダーを通して見る世界の先にある

事実のみを切り取ります。

その事実に意思や情感を感じさせるのは

やはり撮影者の力量なのでしょう。


ひさびさに夏ゼミでの

撮影・編集を担当させていただきましたが

あらためてそのことを実感しました。


映像収録は編集作業をすることを

前提に行いますので

完成後のイメージを常に頭に置きながら

必要なカットを様々なバリエーションで収録して

さらにその中からいいものを選んでいきます。

また、一見何の関係もないようなカット(捨てカットといいます)

を随時、収録することで、時間の経過や、緊張感、または

その場の楽しさなどを表すことができます。


そのあたりについては

充分わかっていたつもりで臨んだのですが

いざ収録した素材のだめっぷりといったら。。。

この素材でよく私の師匠(エモーショナルデザインズ 木内氏)

はあれだけの作品にまとめていただけたなと

感謝の気持ちと申し訳ないような、恥ずかしいような。。。

それは木内氏に対してだけではなく

生徒さんや、現地の先生方に対しても同様でした。


そんな、いろいろな気持ちが入り混じった中での現場でした。


夏ゼミは2010年からの参加ですので

映像制作で関わらせていただいてから

今年で8年目となりました。

気が付けば現場のだれよりも

長く参加していましたが

同時に、誰よりもわかったつもりになっていました。


いうまでもなく

夏ゼミとは

その年、その日、その時のみに存在する事実であって

決して撮りなおすことのできないものです。

そして、その事実を

人のココロに響かせる作品に

変換していく作業も

やはり、やり直しが効かないものです。


一期一会とはよく言ったものですが

それを再度気づかせてくれた

今年の夏ゼミは自分にとって大きな財産となりました。


今年で引退かな。。。と思っていましたが

もし、

来年も呼んでもらえるのなら

リベンジしたいなと、思っています。


※今年の夏ゼミ VTR完全パケ版です。

映像はこちらから

https://drive.google.com/drive/folders/0B8zUm3RvBiAbOTdPSVJVX3VEVFU

※ブログの仕様制限でリンクが貼れませんので

上記リンクをアドレスバーにコピーして指定のドライブで

ご覧ください。

徹夜2日目の朝方。。。

いま、新大阪へ向かう
新幹線の中で書いています。
名古屋を過ぎたところですが
空はどんよりとして
遠くにみえる山の稜線が
霞んでみえて、曖昧な
地上と空の境目が
ずっと続いています。

車窓から見える風景は
次々と入れ替わり、
戻ることのない
時間の流れを
表現しているようにも思えます。

一瞬のうちに
視線から去っていく
街並みにも
さまざまなひとの生活があり
笑い、泣き、怒り、悩み
それらを内包している
風景が次々と入れ替わっていく。
自分の知っているセカイは
いかに限られたものであるかと
思う瞬間です。

かつて、大学時代より20代後半まで
に過ごした町を出て
同じ路線の数駅先に居を構えたとき、
似たような思いを感じたことを
覚えています。

悲喜こもごも。
思い出の多いその町も
電車で通り過ぎれば
わずか3秒程度の
「セカイ」でした。
当時は、それがとても悲しかった。

だけど、今は
そんな風にして
ひとは暮らしていくのだなと
思えるようになりました。
そういう
ちょっとした哀しみが
ひとを成長させて
くれるのかも
しれないからです。

何をやるかと、何が出来るかと、そしてどこへ行く?


先日、B Leagueの決勝戦を観ていた時、

日本人初のNBA選手田臥勇太選手の感極まった顔をみていて

気付いた。


「すごい楽しそうだな」「本当にこの人は職業バスケットではなく、心から楽しんでいるバスケットプレイヤーだな」と。


今の自分に当てはめてみると本当に楽しくやれてる?

職業として広告つくっていない?


やっぱりそこなんだなって。いまの僕にはうらやましくもあり、

涙で自分自身を苦しめていた内容が何か分かりました。


おもしれー・たのしいー・これやってみよう!あれやってみよう!

ワイガヤしながらその価値を見出しながらひたむきに頑張る姿に戻りたい。


自分自身が小さくなって

本当にやりたい事や見たい事ができなくなって・・・

どんどんつまらなくなっています。


僕の信念は

「みんなでいいものを作る」「一人ひとりのアイデアを聞きたい」

「意見がある人が大事」「楽しんできる人が最高!」

そんな人が周りにいるといいなあと。

最後に、

「弟子は師匠を超える」「信頼して裏切られるくらいでちょうどいい」

私の信念はここです。


僕は新物好きですし、ずーっと一つのことをやり続けるのが苦手です。


形を変え、見方を変え、最高の環境づくりと、最良な空気をグループに

出来たらとおもっています。


こんな頭の中が筋肉バカかもしれないですが、

どんどん声を掛けてください。


本当はとっても寂しがり屋でウサギみたいな奴なんです・・・。


よろしくお願い致します。

友人(と、いうより限りなく知り合いに近い友人と、いうか知り合い)の
web編集者、ライターの塩谷舞さんが
立ち上げられた「milieu」という
webメディアの記事を紹介します。

「アーティストです」と自己紹介すると「アートって難しい」と返される日本を出て…NYで学んだこと

Text by AKI INOMATA(@a_inomata)   一般に「アーティスト」というと、どんなイメージがあるだろうか? 「人里離れたところで作品をつくる変人」  といったイメージを持っている人もいるかもしれない。特に、日本ではそういったイメージが根強いように私は感じている。 それは、自らの耳を切り落としたゴッホのエピソードや、「芸術は爆発だ」と叫び、テレビにもよく出演していた岡本太郎などの影響なのだろうか。 実際、そういったアーティストも存在するだろうが、おそらく今、世界中で活躍しているアーティストの多くはそうではない。 神秘的な生物の造形や映像で知られるマシュー・バーニーがイェール大学で医学や体育を学んでいたことは、関係者の中で広く知られているが、横断的な知性を持たなければ今の複雑な現代社会に訴求するアーティストにはなれない。   また、一握りのトップアーティストともなれば、スタッフを多く抱えるスタジオを構え、経営者としての才覚を発揮しながら、社交家として世界のコレクターたちと渡り歩くたくましささえ求められる。つまり、牧歌的な芸術家像のまま、世界を渡り歩くアーティストになることなど不可能なのだ(もし牧歌的に見えている場合、それは巧みなセルフブランディングの賜物なのかもしれない)。 私は今、助成金を得てNYへの留学に来ている(詳しくは前回の記事にて)。 NYで目の当たりにしたのは、こうしたアートの状況に対して切り込んで行くために、広い教養を身につけながら、アートクリティークを学び、積極的にコミニュケーションを取ることで刺激し合うクレバーな同世代のアーティストの姿であった。 先日、アーティスト・イン・レジデンスをしているISCPのスタジオで作品のプレゼンを行った   「世界中に友達をつくる」 人付き合いの苦手だった私にとって、英語でいろんな国のアーティストと話すことが、こんなに面白いだなんて、知らなかった。 いや、私の英語力はまだまだで、こちらのアーティストやキュレーターたちの集まりに顔を出すのは、最初の頃は恐怖でしかなかった。 しかし、1ヶ月も経つとさすがに日常会話には慣れてきて、「AKI、英語上達したねー」と周りの何人かから言われるようになり、それは率直に嬉しい。

milieu

AKl INOMATAさんという
東京藝大出身のアーティストの方が
現在留学をしている
NYから送られている記事です。

私はこの方のことは
存じあげないので
先入観なく、記事をよみましたが
なるほど。。と、
うーん。。が混在してしまいました。

アートって。 つまり
なんだろうかな?と。

以前、住んでいた
墨田区の向島界隈は
シャッター商店街で
空き家が多いせいか
その空き家を使って
アーティストの
人たちが個展をやったり
アクセサリーを
販売していたり
大学の研究室(?)と思われる
生徒さんや教授たちが
集まって、何やらミーティングや
時にはインスタレーションなどを
していました。

それらを横目で見ながら
行きつけの一杯飲み屋のママに
「最近、若い人をよく見るね。」
と話したら
ママは開口一番
「来ないよね。あの人たち。
いろいろやってるみたいだけど、
いつかはここを離れるでしょ。」

つまり、
その土地に住んでいる人たちにとっては
アーティストたちが
やりたいこと以前に
「お金が落ちること」。
結果として、その地域が
彼らの活動を通じて
経済的に潤うことが
最も重要なのだと
その時感じたことを
思いだしました。

その意味では
記事にもあるように
様々な分野の勉強を
してきた人たちが
アートやクリエイティブに
関わることは
意義深いと思います。

ただ、
僕の心に深くささっているのは
「いつかここを離れる」
という言葉。

アートもデザインも
実用を持って世の中に存在して、
そしてそれらに関わる人や
それを享受する人たちにとって
よかったと言ってもらえる
ことが理想だとは思います。

でも、同時に
どこか雲の上の、
そして自分達の生活とは
全くレイヤーの違う話だと
思う人たちが
必ずいるということを
忘れてはいけないと思います。
それは、私が関わっている
広告でも同じなのでしょう。

西行は
「世を捨つる人をまことに捨つるかは
捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

と詠んでいます。

自身の在り様を
どこに置こうとするかで
目指すべき場所は
見つかるのかも
しれません。
この4月でセツモードセミナーが
閉校します。
すでに、他界されていますが
代表であった長沢節さんの
生誕100年を節目に
その歴史を閉じるそうです。

長沢節さんは
ファッションスタイル画の分野で
革命的なお仕事をされて、
その後、セツモードセミナーを
開いてからは
60年代から90年代にかけて
キラ星のデザイナーやクリエーターを
輩出してきた奇跡のような学校を
立ち上げられた方です。

もっとも、節さん
本人からすれば
学校というより、サロンと
いったほうがしっくりくるのかもしれません。

与謝野晶子らが
興した文化学院を経て、
戦前の池袋モンパルナスで、
我流を貫き、
その時代の潮流とは逆行する
ように、細いモデルが好きと言い、
命の一瞬を切り取ったような
スタイル画で若者たちを
熱狂させた節さんの思想が
セツモードセミナーには
詰まっていました。

私自身は絵も描けませんし、
もちろん、セツに通ったことも
ありません。
当然、お逢いしたことも
ないのですが、
この学び舎が
無くなるということが
本当に悲しい。

高校を出て、こちらで
浪人をしている時に
文化学院か、セツかで、
迷った一時期が ありました。
結果的に自分の出来ることを
考えて、日芸にしましたが
今、思えば諦めることを
諦めればよかったのかもしれません。
その後、バンタンデザインで
仕事をしたのもその辺りが起因していた
ようにも思えます。

とにかく、
果てしなく、遠くて、高貴で
憧れの存在でした。
むしろ、近寄ること
すら出来ませんでした。

セツ内のカフェでは、
先生が生徒にコーヒーを
淹れるそうです。

そしてそこには
「下品な缶ジュースはセツに持ち込まないで
下さい」
との貼紙。

卒業式の祝辞で
節さんが語った言葉。
「君たちはこれから社会にでて
いかに楽をして人生を生き抜いていくのかを
真剣に考えなくてはならない。」

こんな言葉を言えるのは
彼一流の美学があるからでしょう。

楽すること、
楽に生きていくということは
別に悪いことじゃない。
人がどう言おうが
楽しんで生きているやつが
一番強いんだ。

真意は違うかもしれませんが
私はこのように受け取っています。

皆さんは
どう思いますか?

お久しぶりです。

今日は好きなファッションについて

書いてみようと思います。

今、好んで着ているのはこんな感じです。

ヤードバーズ。60年代。ですね。

この当時としてはかなり着崩している

スタイルなのでしょうが

それでもファストファッションに代表される

カジュアル全盛の現代からすると

フォーマルな感じすらします。

さらにググると

こんな画像がでてきました。

ほぼ同時期(60年代前半)のメンズファッション誌の1ページのようです。

同じような服を着ているはずなのに

劣化して見えますね。

同じヤードバーズの別写真。

これが日本だと

こうなってしまいます。

とはいえ、僕も日本人ですので、

諸外国からみれば

同じように見えているのかもしれません。

このまとわりつくような哀しさこそが、

愛らしくもあります。


ところで、現在、

ファッションスタイル自体は

かなり細分化されましたが、

約20年程度の周期で流行を繰り返すと

いわれています。

20年単位で考えると

1960年→1980年→2000年→2020年

となるので、今年あたりはやっと

60年代がリバイバルされるでしょう。

ただ、アイテム単体のブームはあっても、

ムーヴメントアイコンとしての

ファッションの役割は

すでに終わってしまっているのかも
しれません。

ファストファッションの台頭が

それを物語っていますが

おしゃれすぎる人→うざい人、暑苦しい人

という定義がもし生まれているのであれば

それはそれで寂しいなとも思います。


箭内さん!いったい、どこで洋服を買ってるんですか?

(宣伝会議 Adver Times 2016年10月13日 掲載)

クリエイティブディレクターの箭内道彦さんの記事です。


世の中は、“ありのまま”が好きじゃないですか。“さりげない”とか“素顔”とか、“そのままの君で”とか。だけど僕はそうは思わない。ありのままで勝負できるならそれに越したことはないけど、なりたい自分と現在の自分が違うのであれば、そこに近づく、たどり着くための努力をしないといけないんじゃないかと思うんです。

(文中より抜粋)


僕は2009年ごろから2013年ごろまで、

それまで鬱積していたものに敵撃ちを

するかのように

洋服やら、バッグやら、靴やら、指輪やらを

買い漁りました。

総額でいうと500万円は

ゆうに超えているかと思います。


大阪旅行記念にとか言って

20万円くらいのバッグを買ってみたり。

当時購入したものの1、2度ほどしか着ずに

タンスにしまっている服や

捨ててしまったものも数多くあります。

それでもまだ部屋は

服だらけです。


実際、それまでの自分からしたら
とんでもない散財でした。
でも、今になってみれば
それよりも
学んだことが多かった。

箭内さんが言われているように
その時なりたかった自分に
なろうと必死だったんだろうと思います。
少なくとも、
ユニクロのフリースを
二枚買うか、一枚だけにするかで
一日中悩むような人生は
送りたくないと思っていました。
それまでの僕は
どちらかと言えばそういう
人間だったのです。

その時の経験が
自分を完全に変えてくれたわけ
でもありませんが、
少なくとも
人様に「おしゃれですね」と
言ってもらえるようにはなりました。
その意味では、あと十何年かは
楽しく生きるやり方を
見つけられたように思います。

おしゃれでない人を
否定する気はないのですが
結局、僕という存在は
他者の目を通して初めて
認識されるものです。
自分のことは
自分では気づかないし
わからない。

であれば、全てにおいて
おしゃれな人と思ってもらいたいし、
また、
努めてそうありたい。

表現の方法は人それぞれですが
「自分」らしさって、僕は
そういうものじゃないのかなと思います。

ところで
最近、とても気になっているのが
これです。
これ、いいですね〜。
60年代テイスト満載。

残念ながら
メンズはないんですが
同じ柄のジャケットがあったら
ボーナスで買いますね。
多分(笑)










































進化をしようとすれば

どんなことだって変わっていけると思う。

そこに、意思があるかどうか。

決して人より奇抜である必要もないし、特別な能力なんかも必要ではないかなと。


それより、変わろうとする意思を持ち続けられるか。

取り込もうとする勇気というところなのか・・・。


大事なのは変わることを恐れない勇気

前を向く勇気。

ファイティングポーズをとり続けられる勇気


変化を大事にしたい。


こんなことをいつも考えながら出勤してます。


最近子供がIpad(2歳・4歳の二人)がしきりにSIRIにむかって

お片づけの仕方、料理の作り方、お風呂の入り方を聞いています。

楽しいみたいです。

機械の中に人がいるとずっと思っています。

たまたま、ホームボタンを長押したことが彼らの世界を変えたのだと思います。


そうやって変化をして学んで、成長していく。


だからこそ、大人も子供のような好奇心やアンテナを持って取り入れること

大事にしたいとおもいます。









ひとの成長の過程を
微笑ましく
そして
誇りを持って見守れるひとに
なるには
相当の寛容と忍耐を
同時に
受け入れる覚悟が
必要なんだと思います。

けれども
やはり
ひとは嫉妬します。

ひとの行動に。
ひとの若さに。
ひとの環境に。
そして
ひとの才能に。

自分がそうありたい。
そして
かつてそうありたかった
姿を繰り言のように
つぶやくのかもしれません。

ただ、
全ては
あると思えばあるし
ないと思えばないのでしょう。

意思は現実を凌駕する。

そう、思って
あと、20年ほどを
生きてみたいと
思っています。

年明けからいろいろと忙しさが重なっています。

例年、入試シーズンを迎える

この時期は広報部にとっての

繁忙期(年中繁忙期のような気もしますが。。。)

なのでしょう。


個人的には仕事がどうとかいうことよりも

ゆっくりとモノを考える時間がないと

いうことにいらだっているようです。


けれど、一日に与えられた時間は

誰しも平等なのですから

その中で工夫をしていくべきでしょうし、

むしろ時間がないときのほうが

よりよいアイデアが浮かぶ場合も

あるのかもしれません。


最近は自分の家から

JRの巣鴨駅まで

行きと帰りを歩くようにしています。

通常は別路線の電車で巣鴨にでて。。乗り換えて

という経路ですが、歩いても15分程度で

家につきます。

途中、墓地の真ん中の道を抜けなければならないので

とても怖いのですが、それでも

ずんずん歩きます。


歩いている間に

ほてった頭が整理されて、

ちょっとしたことを思いつきます。

すかさず、スマホでメモして

それを繰りかえす。

決して逆行することのない

時間と、思考という

足元の小川の流れを

頼りなげにすくい上げているだけなのかもしれません。


でもそれがいつか、何かに変わればいいと

思っています。


ところで、最近は

仕事でよく鉛筆をつかうようにしています。

筆記中に何度も削らなくてはなりませんが

やがて、小さくなっていく鉛筆が

自分にとって、やけに暖かい存在に

感じているからです。


ある作家が

「一日の仕事の最初は、その日つかうすべての鉛筆を削ることから始める」

といったことを思い出しました。

一見面倒くさいと思えることでも

もしかしたら、

心を落ち着かせ、思考を整理するための

重要なセレモニーなのかもしれませんね。