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僕はどちらかというと
遅読タイプなのですが、
一度に何冊かの本を同時進行で
理由は単純で、飽きっぽく、
かつ、熱しやすく、冷めやすい
そんな自分の性格をわかっているからこそですが、
ジャンルの違うものが
いつも手元にあります。
今、読んでいる本をあげてみます。
◆来訪者(新訳版)
ロアルド・ダール 著 田口俊樹 訳
◆経営とデザインの幸せな関係
◆Cornelius×Idea:Mellow Waves -コーネリアスの音楽とデザイン‐
アイデア編集部 編
◆貧乏サヴァラン
どんな内容かは
ネット見ろ!ってことで。
さて、当然のことながら、
さらっと読み流すものもありますし、
気に入って何度も読み返すものも
貧乏サヴァランなどは
その部類に入ります。
また、書店で気持ちがノッてしまい、
調子に乗ってたくさん買ったうえに
その本を開くことなく
読み始めて最初の数ページで、
飽きてしまう本もあります。
ですが、
それは、ちゃんと読み進められない
自分の忍耐力や意思が希薄なんだ。。。
などとは少しも思いません。
単純に、自分にとって「面白くない」から読まないのだ。
もしくは自分が読み進められない内容を
執筆している著者や編集者が悪いのだ。
と考えるようにしています。
とはいえ、そんな考え方ができるようになったのは
35歳も過ぎてからのことです。
「〇〇のために〇〇を読まなければいけない」
「最後まで読了しなければ意味がない」
「登場人物の心情や、作者の意図を理解しなくてはいけない」
思い起こせば、小学校入学以来の
悪しき習慣にわりと最近まで
あと、本をよく読む子は賢いとかね。
ああいうのがかえって子供心には
重荷だったりするわけで。
たまたま、自分が本を読むことが好き
苦手な人は、ある一定の年齢になったら
(受験や通学などの目的がなくなったら)
やっぱり、やめてしまうんだろうなと思います。
僕の場合は本ばかり読んでいたので、
小学校の通信簿に
「読書好きなのはいいが、学力が下がるので少し控えるように。」
今、日本の書店数が激減しています。
電子書籍はずいぶん普及してはいますが、
出版社も事業の縮小、撤退など明るい話題はほとんどありません。
15年くらい前に僕が広告を担当していた雑誌も
今はまったくといっていいほど
出版物の流通システムが
硬直化していることや
前述のとおり、ネットで検索すれば
その書籍のあらすじや
付帯的な関連情報がだいたいつかめてしまったりするので、
幼いころから
「好きな本」を「好きなように読んでいい」
「読みたくない本」を「読まなくてもいい」
ということが認められていないことも
案外、要因としてあるのかなと、
ふと思ったりします。
その意味では近年、絵本を購入する大人が
いい傾向なのかもしれません。
僕が子供の頃の絵本の立ち位置は
「子供が読むもの」
「母親が子供に読み聞かせるもの」
だったわけですから。
少なくとも大人の読むものでは
ところで最近、
過去に電子化された出版物が
読み込めるデバイスが稼働しなくなり、
再現ができない事象や、
過去のブログやオンラインゲーム、
著作物の権利保護と
経年保存をどのようにしていくか
盛んに行われています。
特にクラウド上で保存、公開されている著作物は
すでにアナログ的なもの
紙の書籍類や出版物のほうが、
結果、長期記録・保存や著作権者の
履歴を遡る上で実は最強だったという、
何とも皮肉なお話です。
ちなみに僕は電子書籍はほとんど読みません。(マンガ以外は)
一番の理由は
装丁を楽しむことができないから。
プラス、かえって目が疲れると
いうことですかね。
おかげでリュックがいつも重くて、
肩こりがひどいというわけです。
みなさんお元気ですか?
やや間が空いてしまいましたが
8月9日に伺った「おとぎ展」について
書こうと思います。
鈴木さんをはじめ、各美大の有志が
集まったグループ展。。
もう、みなさんご存知ですよね。
今回は藝大の卒業制作の実物も初めて
ベースとなる正方形のグリッドと
同サイズの正三角形を組み合わせて
からすを描かれているようでした。
単純化された描線と、大きな目が特徴で、
1羽1羽はかわいらしいフォルムなのですが
このように複数羽集まっていると
背景の太陽の色も相まって
不気味さを感じます。
こちらは絵本なのですが
ストーリーの終盤ではこのカラスたちが
どんどん増えていって、
ついには空を覆うほどになります。
相似形(のように私には見えた)の
黒い鳥たちが
空ばかりか、すべての存在を
黒く塗りつぶしていく様は
あのヒッチコックの名作「鳥」と同様に
抗うことのできないほどの
恐怖や現実の前で、なすすべのない
人間の無力さを表現しているようにも
(絵本の原画も展示。)
もうひとつ紹介したいのはこちら。
「あめふり」という作品です。
絵本原画の公募展として、
絵本作家の登竜門ともなっている
ボローニャ国際絵本原画展の巡回展に
合わせて、板橋区立美術館で
開催されたセミナーに鈴木さんが
参加された際に創られたものだそうです。
中でも印象に残ったのは
雨の降る日、お母さんが
子供を保育園に迎えに来た
その一瞬をとらえたこのカット。
こちらは原画ですが
この一瞬を様々なアングルから
とらえられていました。
この絵に一度見たことがあるような
既視感を覚えたのですが
園児だったころの自分の記憶と
同じような場面を経験した記憶が
親と子それぞれの視点で
よみがえったからなのかもしれません。
写真ではとてもコンパクトな装丁に
見えますが、
大きく1枚に広げられるしかけがあったりと
とても面白い作品でした。
「おとぎ展」に伺わせていただくのは
今回で2回目でしたが、
メンバーのおひとりが身体を壊されて、
作品を出されていなかったこともあり、
前回に比べるとやや寂しい印象の
展示会ではありました。
ぜひ、次回は期待したいです。
ところで、「おとぎ」という言葉は
おとぎ話に代表されるような
昔話や伝説、空想話などのファンタジーを
想起させますが、
実は夜の慰めや妾といった意味も
展示物は各々1点づつでもいいので
例えば、おとぎに対しての解釈を
見てみたいなぁとも思いました。
ぜひ、機会があれば、みなさんも
ご覧になってください。
カメラは正直だとよく言われます。
意思を持たないその機械は
ファインダーを通して見る世界の先にある
事実のみを切り取ります。
その事実に意思や情感を感じさせるのは
やはり撮影者の力量なのでしょう。
ひさびさに夏ゼミでの
撮影・編集を担当させていただきましたが
あらためてそのことを実感しました。
映像収録は編集作業をすることを
前提に行いますので
完成後のイメージを常に頭に置きながら
必要なカットを様々なバリエーションで収録して
さらにその中からいいものを選んでいきます。
また、一見何の関係もないようなカット(捨てカットといいます)
を随時、収録することで、時間の経過や、緊張感、または
その場の楽しさなどを表すことができます。
そのあたりについては
充分わかっていたつもりで臨んだのですが
いざ収録した素材のだめっぷりといったら。。。
この素材でよく私の師匠(エモーショナルデザインズ 木内氏)
はあれだけの作品にまとめていただけたなと
感謝の気持ちと申し訳ないような、恥ずかしいような。。。
それは木内氏に対してだけではなく
生徒さんや、現地の先生方に対しても同様でした。
そんな、いろいろな気持ちが入り混じった中での現場でした。
夏ゼミは2010年からの参加ですので
映像制作で関わらせていただいてから
今年で8年目となりました。
気が付けば現場のだれよりも
長く参加していましたが
同時に、誰よりもわかったつもりになっていました。
いうまでもなく
夏ゼミとは
その年、その日、その時のみに存在する事実であって
決して撮りなおすことのできないものです。
そして、その事実を
人のココロに響かせる作品に
変換していく作業も
やはり、やり直しが効かないものです。
一期一会とはよく言ったものですが
それを再度気づかせてくれた
今年の夏ゼミは自分にとって大きな財産となりました。
今年で引退かな。。。と思っていましたが
もし、
来年も呼んでもらえるのなら
リベンジしたいなと、思っています。
※今年の夏ゼミ VTR完全パケ版です。
映像はこちらから
https://drive.google.com/drive/folders/0B8zUm3RvBiAbOTdPSVJVX3VEVFU
※ブログの仕様制限でリンクが貼れませんので
上記リンクをアドレスバーにコピーして指定のドライブで
ご覧ください。
徹夜2日目の朝方。。。
何をやるかと、何が出来るかと、そしてどこへ行く?
先日、B Leagueの決勝戦を観ていた時、
日本人初のNBA選手田臥勇太選手の感極まった顔をみていて
気付いた。
「すごい楽しそうだな」「本当にこの人は職業バスケットではなく、心から楽しんでいるバスケットプレイヤーだな」と。
今の自分に当てはめてみると本当に楽しくやれてる?
職業として広告つくっていない?
やっぱりそこなんだなって。いまの僕にはうらやましくもあり、
涙で自分自身を苦しめていた内容が何か分かりました。
おもしれー・たのしいー・これやってみよう!あれやってみよう!
ワイガヤしながらその価値を見出しながらひたむきに頑張る姿に戻りたい。
自分自身が小さくなって
本当にやりたい事や見たい事ができなくなって・・・
どんどんつまらなくなっています。
僕の信念は
「みんなでいいものを作る」「一人ひとりのアイデアを聞きたい」
「意見がある人が大事」「楽しんできる人が最高!」
そんな人が周りにいるといいなあと。
最後に、
「弟子は師匠を超える」「信頼して裏切られるくらいでちょうどいい」
私の信念はここです。
僕は新物好きですし、ずーっと一つのことをやり続けるのが苦手です。
形を変え、見方を変え、最高の環境づくりと、最良な空気をグループに
出来たらとおもっています。
こんな頭の中が筋肉バカかもしれないですが、
どんどん声を掛けてください。
本当はとっても寂しがり屋でウサギみたいな奴なんです・・・。
よろしくお願い致します。
お久しぶりです。
今日は好きなファッションについて
書いてみようと思います。
今、好んで着ているのはこんな感じです。
ヤードバーズ。60年代。ですね。
この当時としてはかなり着崩している
スタイルなのでしょうが
それでもファストファッションに代表される
カジュアル全盛の現代からすると
フォーマルな感じすらします。
こんな画像がでてきました。
ほぼ同時期(60年代前半)のメンズファッション誌の1ページのようです。
同じような服を着ているはずなのに
劣化して見えますね。
同じヤードバーズの別写真。
これが日本だと
こうなってしまいます。
とはいえ、僕も日本人ですので、
諸外国からみれば
同じように見えているのかもしれません。
このまとわりつくような哀しさこそが、
愛らしくもあります。
ところで、現在、
ファッションスタイル自体は
約20年程度の周期で流行を繰り返すと
いわれています。
20年単位で考えると
1960年→1980年→2000年→2020年
となるので、今年あたりはやっと
60年代がリバイバルされるでしょう。
ただ、アイテム単体のブームはあっても、
ムーヴメントアイコンとしての
ファッションの役割は
ファストファッションの台頭が
おしゃれすぎる人→うざい人、暑苦しい人
という定義がもし生まれているのであれば
それはそれで寂しいなとも思います。
箭内さん!いったい、どこで洋服を買ってるんですか?
(宣伝会議 Adver Times 2016年10月13日 掲載)
クリエイティブディレクターの箭内道彦さんの記事です。
世の中は、“ありのまま”が好きじゃないですか。“さりげない”とか“素顔”とか、“そのままの君で”とか。だけど僕はそうは思わない。ありのままで勝負できるならそれに越したことはないけど、なりたい自分と現在の自分が違うのであれば、そこに近づく、たどり着くための努力をしないといけないんじゃないかと思うんです。
(文中より抜粋)
それまで鬱積していたものに敵撃ちを
洋服やら、バッグやら、靴やら、指輪やらを
買い漁りました。
総額でいうと500万円は
ゆうに超えているかと思います。
大阪旅行記念にとか言って
20万円くらいのバッグを買ってみたり。
当時購入したものの1、2度ほどしか着ずに
タンスにしまっている服や
捨ててしまったものも数多くあります。
それでもまだ部屋は
服だらけです。
進化をしようとすれば
どんなことだって変わっていけると思う。
そこに、意思があるかどうか。
決して人より奇抜である必要もないし、特別な能力なんかも必要ではないかなと。
それより、変わろうとする意思を持ち続けられるか。
取り込もうとする勇気というところなのか・・・。
大事なのは変わることを恐れない勇気
前を向く勇気。
ファイティングポーズをとり続けられる勇気
変化を大事にしたい。
こんなことをいつも考えながら出勤してます。
最近子供がIpad(2歳・4歳の二人)がしきりにSIRIにむかって
お片づけの仕方、料理の作り方、お風呂の入り方を聞いています。
楽しいみたいです。
機械の中に人がいるとずっと思っています。
たまたま、ホームボタンを長押したことが彼らの世界を変えたのだと思います。
そうやって変化をして学んで、成長していく。
だからこそ、大人も子供のような好奇心やアンテナを持って取り入れること
大事にしたいとおもいます。
年明けからいろいろと忙しさが重なっています。
例年、入試シーズンを迎える
この時期は広報部にとっての
繁忙期(年中繁忙期のような気もしますが。。。)
なのでしょう。
個人的には仕事がどうとかいうことよりも
ゆっくりとモノを考える時間がないと
いうことにいらだっているようです。
けれど、一日に与えられた時間は
誰しも平等なのですから
その中で工夫をしていくべきでしょうし、
むしろ時間がないときのほうが
よりよいアイデアが浮かぶ場合も
あるのかもしれません。
最近は自分の家から
JRの巣鴨駅まで
行きと帰りを歩くようにしています。
通常は別路線の電車で巣鴨にでて。。乗り換えて
という経路ですが、歩いても15分程度で
家につきます。
途中、墓地の真ん中の道を抜けなければならないので
とても怖いのですが、それでも
ずんずん歩きます。
歩いている間に
ほてった頭が整理されて、
ちょっとしたことを思いつきます。
すかさず、スマホでメモして
それを繰りかえす。
決して逆行することのない
時間と、思考という
足元の小川の流れを
頼りなげにすくい上げているだけなのかもしれません。
でもそれがいつか、何かに変わればいいと
思っています。
ところで、最近は
仕事でよく鉛筆をつかうようにしています。
筆記中に何度も削らなくてはなりませんが
やがて、小さくなっていく鉛筆が
自分にとって、やけに暖かい存在に
感じているからです。
ある作家が
「一日の仕事の最初は、その日つかうすべての鉛筆を削ることから始める」
といったことを思い出しました。
一見面倒くさいと思えることでも
もしかしたら、
心を落ち着かせ、思考を整理するための
重要なセレモニーなのかもしれませんね。