広告をつくることと、美意識と。
以前、ananか何かを読んでいたとき、
資生堂宣伝部出身のアートディレクター
平林奈緒美氏の在職中の回想録を目にする機会がありました。
銀座にある宣伝部に入社したばかりの20代のころ、
残業続きで食事を取る間もなく 、菓子パンをつまみながら仕事をしていたとき 、
その様子を見た当時の上司から
「そんな食事をするな。きちんとしたものを食べなければ美しいものはつくれない。」
と言われ、お金を渡され、近くの高級寿司屋で
折り詰めを買ってこさせられ、それを食べた。
といった(うろ覚えですが)内容でしたが、それを読んで
やけに感心したことを覚えています。
おそらく平林氏と私は同じような年齢ですので、
ほぼ同時期に銀座の街で働いていたと思われます。
私はその頃、銀座八丁目にあるCMプロダクションの
プロダクションマネージャー(= ペーペー)でした。
当時、CM撮影の下準備と当日の進行管理の仕事をしていましたが 、
撮影日に用意する朝食や昼・夜の弁当にとにかく気を使えと
先輩に言われたことを思い出します。
確かに早朝から深夜まで休みなく撮影をしている多くのスタッフにとって
食事は唯一といっていい、楽しみだったと思います。
いわゆる「業界仕事」において撮影時の食事の用意は下っ端のマストタスクですが
その内容しだいで、当日のスタッフやキャストの
モチベーションを左右する大切な仕事でもありました。
ところで、平林氏も新人の撮影時、やはり弁当を手配していたそうです。
入りたてのころは、撮影があるとスタッフみんなのお弁当を用意するのですが、
選ぶときにも「絶対に、自分で一度食べてから、おいしいと思った弁当以外出すなよ」と、
デザインよりもそういうところに厳しい指導が入るんです。
いろいろな趣味、職業の人が集まっているなかで、
食べることは全員に共通する楽しみだから、そこは大事にしろと言われました。
「美味しいものも用意できないヤツなんかにいいデザインはできない」とも。
言われた意味も、今になればよくわかります。
(NEWYORKER MAGAZINGE Vol.32より)
バブルの残り香があった時代だといえばそれまでですし、
著名なクリエイターを多く輩出している有名宣伝部と小さなCMプロダクションでは
比べるべくもないのかもしれませんが 、底辺に流れているものの近似は
どうやらあったようです。
私が広告制作に関わるようになってから20年以上が経ちましたが 、
広告に込めるべき制作者の「美意識」についてよく考えるようになりました。
ここでいう「美意識」とは表面上の美しさを追求することでもありますが、
どちらかというとモノづくりにおける思想としての「美しさ」です。
もとより広告というものはその対象物である製品とともに「消費される」という
宿命をもって生まれています。
しかし、モノ消費からコト消費へのパラダイムシフトに臨んで 、
広告自体も大きな転換をもとめられています。
ひるがえって、自分が今、作っている広告がどうかと問われると正直、自信がありません。
ただ、ありふれている事象にこそ見逃している「美しさ」が潜んでいるのかもしれない
と思える部分もあります。先ほどの弁当の話にもそのようなヒントがあります。
資生堂は長年にわたり独自の書体「資生堂書体」を使い続けています。
宣伝部に入社した新人は日々の仕事と並行して、この書体を一年間、
手書きでの練習を必ず行うのだそうです。
それは、はからずも資生堂書体が企業の精神性を伝達するためのメディアとしての役割も
果たしているということなのだと思います。
宣伝部の新人は手書きで一文字ずつ、書体の練習をすることで
それを連綿と受け継いでいるのでしょう。
「一瞬も一生も美しく」
コーポレートメッセージに込められたその意志からは
実存が先か本質が先かという議論を不毛に思わせてしまうほどの
「美しさ」を私は感じずにはいられないのです。
資生堂書体「美と、あそびま書。」資生堂
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